BLACK SMOKER RECORDS

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富樫雅彦 / SCENE

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KBマニアには「KILLER-BONG / murder scene」のサンプルネタとして知られる、2007年に他界した不屈のジャズドラマー富樫雅彦!半身不随後、両手のみで演奏する独自のドラムセットを考案。平均律機能のない打楽器だけで慣らされた至高の音楽宇宙!!1987年録音作品。発掘!

『リングス』『フェイス・オブ・パーカッション』に続くソロ3作目。ドラム・セットに加えてトーキング・ドラムや各種ベル類を併用し、打楽器による純然たるソロ演奏ながら、極めてメロディアスな世界を構築している。(解説付)

tr01, Scene   
tr02, Song for twilight   
tr03, Chromatic lady & Pentatonic guy
tr04, Tears
tr05, Hoy Hoy
tr06, Song of nothing  
tr07, In the pot   
tr08, Typhoon   
tr09, Midnight talking to me

Total play time : 63:57

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富樫雅彦
バイオリニストの父の影響を受けてバイオリンを始め、10歳の頃には小野アンナに師事するが、13歳の頃よりドラマーの道を目指し始める。翌年にあたる1954年(14歳)で既に、チャーリー石黒率いる東京パンチョスや松岡直也トリオのドラマーの座を得る。その後も10代のうちに八木正生トリオ、秋吉敏子コージー・カルテット、渡辺貞夫コージー・カルテットなど複数のグループでドラマーとして活躍する。1961年にジャズ・アカデミーを結成し、以後フリー・ジャズに傾倒する。1965年に日本初のフリー・ジャズ・グループと言われる富樫雅彦カルテットを結成。この頃には、唐十郎(俳優、劇作家)や足立正生(映画監督)と共に「新宿の三大天才」と呼ばれた。1969年に実験的音響空間集団ESSGを結成。この年、富樫は後世に語り継がれることになるアルバムを連続して生み出す。1月には鈴木弘との双頭コンボで「ヴァリエーション」を録音。35月と11月には自身のカルテットで「ウィ・ナウ・クリエイト」、「スピード・アンド・スペイス」を録音。そして12月には映画『略称・連続射殺魔』(監督:足立正生)のためのサウンドトラックとして、高木元輝と「アイソレーション」を録音した。これは富樫が両手両足でドラムを演奏した最後のアルバムとなる。1970年1月、富樫の浮気が原因で背後から妻にナイフで刺され脊椎を損傷し下半身不随となるが、5月にはスイングジャーナル誌において読者人気投票ドラマー部門第1位に輝く。約3年半後の1973年7月7日には、「インスピレーション&パワー14 フリージャズ祭」において佐藤允彦とのデュオで復帰する。独自のドラムセットを考案し、両手のみで演奏するパーカッショニストとして、不屈の闘志で活動を再開。1975年には『スピリチュアル・ネイチャー』がスイングジャーナル誌ジャズディスク大賞「日本ジャズ賞」を受賞。その後も「日本ジャズ賞」を繰り返し受賞。受賞回数は日本人ミュージシャン最多。他にも1978年に「芸術選奨新人賞」なども受賞している。海外のミュージシャンとの演奏も多く、ドン・チェリー、スティーブ・レイシー、チャーリー・ヘイデン、セシル・テイラー、マル・ウォルドロン、ゲイリー・ピーコック、リッチー・バイラーク、ポール・ブレイなどと共演している。負傷後は4ビートのスタイルからは離れていたが、1991年JJスピリッツを佐藤允彦らと結成し、ハイハットとベースドラムなしでも4ビートでスイングできることを示した。2002年7月27日、日野皓正とのデュオ演奏中に貧血を起こして中止、その後11月に予定されていた演奏も体調悪化のため中止し、演奏家活動を引退。以後は作曲、絵画制作に専念する。2007年8月22日、心不全のため神奈川県内の自宅で死去。67歳没。
価格:3,259円
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